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沖縄の稲の品種|歴史散策♪

お米マイスター
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いただきものの食パンが冷蔵庫の番をしてたので
昨日、何気なくフレンチトーストの話になったのですが
何を思ったのか・・
「俺、作ってみていい?」とムスコ。

もちろん、子どもの“やってみたい”は大賛成です♪

「で、作り方教えて」
と言うので。。

「ボウルに砂糖と卵入れて混ぜるさ、で牛乳入れる。
パンを切って漬けて、フライパンにバター溶かして焼く・・かな」

ここまで言って思ったのが
今まで目分量で作っていたので分量の説明がめっちゃアバウト(▽//;)

“そっかぁ。
数あるおばぁレシピなどの適当さはこういうことだったのか!”
と感じる瞬間でした。

今朝、私が起きると同じくらいに台所でもさもさとクッキングスタート。
なんだかんだで一応作り上げて。

親ばかなわたしが言うのもなんですが・・

初めてにしては上手いと思います。

たまごの黄色についたおいしそうな焦げ加減、
もっちりとした焼き上がり♪
男子っていつも作らないのになんだか上手く仕上げちゃうことって
多いですよね。
「おいしいっ♪」と喜ぶ私にめちゃくちゃ嬉しそうな笑顔のムスコに
ちょっとドキッとしました(笑)。

この様子を見ると、また何か作ってくれるんじゃないかな^^

おはようございます。

日程の方はまだ定かではありませんが
縁深い金武の地でのお米講座のお話をいただきました。

嬉しく思います。

現在、「食」に携わる方々の趣向を凝らした講座等が多い中
“米”を選んでいただけることも嬉しいのですが
少しいつもと違う緊張を覚えるのは
その地、“金武”も米ドコロだからなのだと思います。

携わっていた・携わっている方が多いであろうその地で
今の実情とこれからもお話をしていけたらいいな♪と
期待に胸膨らませています。

現在、沖縄での米の生産は一部の地域に集中していて
その約半数は石垣だと言われています。

明治~昭和初期にかけて5000~8000ha、
戦後1995年に12532haも生産していたそうです。
1960年以降に減少し、現在はそのピーク時の10分の1だとか・・

沖縄県の稲作は玉城村百名村が発祥地とされているのですが
それがいつどこから伝わったのか明らかでないというのが
またロマンでもあり、冒険心をくすぐります。

今でこそ作られている品種は皆さんもご存知の「ひとめぼれ」ですが
以外にもこの品種の定着は1998年以降の普及らしいというのを
知り、ちょっと驚きました。
1881年以前はちゃんとした記録がなく、在来種や、それに近い雑品種が
長く栽培されていたのであろうという見方らしいのですが
その後、羽地赤穂・名護赤穂および羽地黒穂・中村種が選ばれ、
1930年に台湾から台中65号が入り、1934年に奨励品種に決定
されるまで続いていた・・と。

日本復帰後に先出の台中65号・トヨニシキ・ナゴユタカ・チヨニシキが主になり
1998年以降にようやく“ひとめぼれ”へ。

今のお米で有名なのは戦後生まれのコシヒカリです。
戦前、戦中に栽培が盛んであったのは、なんという品種で、
どんな特徴があったのでしょうか?

▼ ▼ ▼

今のお米の品種は明治時代に作られていた品種がベースになり
改良を加えられて現在300種以上が作付けされています。
ベースは 旭ー水稲農林8号ー水稲農林22号 系列
亀の尾ー陸羽132号ー水稲農林1号 系列

農林22号と農林1号から生まれたのがコシヒカリ(昭和30年)、
コシヒカリの兄弟(ハツシグレ)とササシグレの子供が「ササニシキ」(昭和38年)

コシヒカリと初星の子供が「ひとめぼれ」(平成3年)、
コシヒカリと奥羽292号の子供が「あきたこまち」(昭和59年)
その後、「はえぬき」「きらら397」などが生まれました。

現在の作付けランクは
コシヒカリ、ヒノヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、キヌヒカリ、はえぬき
きらら397 となり もう ササニシキはトップ10には入っていません。

お米は 耐病、収量、味 が大切なので
昔からくらべればどんどん味は向上しています。
特に昔は冷夏に対応する品種、また「いもち病」に悩まされたので
耐病性に優れた品種の開発に取り組みました。

陸羽132号は大正10年に開発されたいもち病につよく、耐冷夏の品種で
その後24年間(1952年まで) 作付け面積NO.1の地位を保ってきました。
農林22号は食味、耐寒性に優れていたが耐病性にやや弱かった。
農林1号(昭和6年開発)は収穫量、その他にも優れていた品種で

1号、22号の両方の良い遺伝子がつたわったのがコシヒカリです。
地球温暖化の影響がどう影響するか心配です。
昔、あまりおいしくなかった北海道のお米が最近、人気が出てきた
と聞きました。

地域によって多様な稲がありました。

日本でイネの品種改良が本格的に始まったのは、明治時代からです。
メンデルの法則の再発見とほぼ同時くらいですから、100年の歴史があります。
はじめは、地域で在来種として栽培されていたものからより良いものを
選抜していました。これが、1920年頃から、交配・選抜による品種へと
変わってゆきます。

しかし、日本で米の自給が達成されたのは、1970年。
つまり品種改良の歴史で、「自給を達成しよう」という目標が無くなった時期の方が
短いのです。
また、第二次大戦後、国がお米を一旦買い上げて割り当てるという制度が
1995年まで続きました。
消費者が、味で商品を選べる時代などほんのわずかのことなのです。

「白いお米が腹一杯食えたら、死んでも良い!」これがお米の歴史のほとんどです。

また、戦前 肥料は高価で、機械も使わず、農薬もありません。
病虫害や気象災害に悩まされるのが毎年のことでした。
自分のイネが全滅するのを防ごうと、農家は工夫していました。
わざと様々な品種を作ること、わざと飛び飛びの土地で作ること、などです。
したがって、栽培が盛んな品種と言っても、現在のコシヒカリのように
広く作られているものはありません。
同じ品種名でも、同じものを作っているとは限りません。
陸羽132号、農林1号などはごく例外です。

かつておいしいと評判であっても、今の品種と比べれば全然違う味わいがします。
味は、食べる人の好みです。絶対の尺度など有りません。
今の尺度では、「台中65号」も、「赤毛」も、げんなりするような味です。
それでも、かつてはおいしかったのでしょう。

今の目線で思い込みをすると、歴史が見えなくなります。

>「白いお米がおなかいっぱい食べることができたら」というのは
昔読んでいた本などに書いてあった記憶があり、幼心に衝撃を受けたものです。

>「今の目線で思い込みをすると、歴史が見えなくなる」
このフレーズが刺さりました。

ジャポニカ米とインディカ米の交配を繰り返すことでできた
「嘉南2号」 これも美味しかったようです。

その他平行して行われた日本稲同士の組み合わせからは
「台中65号」

他には北広島で格的に収穫された品種
「赤毛」

「ミトラズ米」
戦前(稲の品種改良前)に主食として作られていた米の種類で、
現在は、ワラ細工の材料として、青刈りして用いられたりしています。
そのため、現在ではほとんど口にすることができなくなった「幻の米」
ということができます。
今回は、青刈りをせずに、実を入らして収穫して、食べてみたところ、
非常に美味しかったようです。

「いすみ米」
いすみ市旧夷隅地区は温暖な気候、肥沃な耕地に恵まれた農業中心の地域です。
いすみ米は千葉県下のうまい米三大産地として知られています。
この地域の農業の歴史は古く、町を東西に流れる夷隅川流域に農耕文化が開花し、
大和朝廷の宮中の御料地となり全域に屯倉が並んでいたようです。
そういった歴史を受け継いだ「いすみ米」は、しっとり・ふっくら・もちもち‥‥。
とっても食感がよく特に「もちもち感」は一度食べた方はそのおいしさが
忘れられないそうです。

「蓬莱米」
もともと台湾では、タイ米のような細長いポロポロしたお米が栽培されていました。
しかし戦前、日本人によりジャポニカ米が導入され、品種改良の結果、台湾の
土壌にあったお米が作り出されました。これはおいしいと日本でも評判になり、
戦前は“蓬莱米”というブランド名で、台湾から日本へ多くのお米が輸出されていた。

という品種に触れたお話もありました。

まだまだ知らないことの方が多いです。
でも、足元の歴史も知らずには伝えられませんよね^^

「米」を「米」の目線でしか見なければ「米」でしかないのだと考えています。
( ↑ ちと“なんのこっちゃ”ですね:^^)

そのものに惚れることができなければ
伝えようとする相手には、その良さは数百分の一でしか
伝わらないのかもしれないと思います。

こめなな的までなると、これはまた違う問題なのかもしれませんが(▽//;)、
まだまだ散策はスタートしたばかりなのでございます。。