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沖縄、稲作ルーツ巡り

お米論
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以前
沖縄の稲の品種|歴史散策♪
沖縄の稲作発祥の地|受水走水
で、沖縄の稲作や、その発祥の地を綴ってまいりました。

ただ、そこからどう広まっていったのか?など
数々の疑問が残り、以来、その玉城村(南城市)周辺で
お話を聞かせていただけそうな方や文献を探していました。

何度も問い合わせをしてきて、やっと了解いただけたのが、
大里村庁舎の市史編さん課の方、繋がることができました♪

一通り、お会いする前に交わしていた知りたいことや目的などお話し、
今回教えていただきたいことなどを確認し、開始!

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まずお伺いしたのが、目的地に着く前に通るということでご案内いただいた
「百十踏揚の墓」(冒頭の写真:参考)。
場所が場所なので、お参りの挨拶のみで撮影は控えています。

百十踏揚は、第一尚氏王統六代の王である尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘です。
勝連按司(かつれん・あじ:領主的豪族)の阿麻和利(あまわり)のもとに嫁ぎますが、
阿麻和利は、王府に謀叛を企てたとして、
鬼大城(おにおおぐすく)率いる王府の軍に討たれます。

その後、鬼大城の妻となりますが、第二尚氏王統の時代になると、
鬼大城も権力闘争の中で討たれてしまいます。

政略結婚の犠牲者となった百十踏揚ですが、晩年は、
玉城間切(たまぐすく・まぎり)に暮らす兄弟のもとで過ごしたと
伝えられています。

ウィキペディア/百度踏揚

百十踏揚は、「肝高の阿麻和利」を観賞するようになり
知りました。

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稲作の発祥地とし有名なのは「受水・走水」ですが
実は、本当はこちらが発祥の地と言われている場所がありました。

「カラウカハ」
玉城新原集落の北西側にあり、知念の「ウファカル」、
玉城受水走水(うきんじゅ はいんじゅ)とともに稲作発祥伝説の舞台と
なっています。

地元の伝承によると、今から約700年前、
中国から稲穂を啣(くわ)えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、
その稲穂がここで芽を出しました。
早苗はアマミツ(地元の偉人)によって受水・走水の水田(御穂田みーふーだ)に移植され、
琉球最初の稲作が始まったと伝えられています。

現在は地域の拝所として、初ウビー(若水取りの儀式)などの行事に
拝まれています(別名『天孫子ガー』)。~南城市

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沖縄の稲作の歴史は、玉城の受水・走水が発祥の地とされているのですが、
弥生時代の稲作の遺構は確認されていないそうです。
中国の古文書には、『伊平屋は米を産する最も佳なり』とあり、
8世紀には既に米を生産していたようです。。

沖縄の稲作は、この時代に大和人との交流も盛んになったため、
九州経由で弥生文化の稲作がもたらされたと考えられてきました。
しかし、本土で弥生時代の遺跡から、熱帯ジャポニカ米のDNA組織が
見つかったことから、従来の朝鮮半島ルートでなく、
中国江南→琉球→九州南部の、柳田國男の黒潮ルートが見直されているそうです。

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少し話しは変わりますが・・
熱帯ジャポニカ米はどこにいったのだろうか。
沖縄では米を『クミ』と発音し、久米島はかつて米の産地でした。
その語源は、熱帯水稲作の起源のクメールだとも言われています。
もし、熱帯ジャポニカ米の古代米が沖縄で確認されれば、
以下の仮設が成り立ち、稲作の歴史が変わってしまうかもしれません。

>熱帯の水稲が中国江南から古琉球、九州へ伝播し弥生水稲文化を築いた。
その後8世紀頃、琉球王朝の成立と時を同じく繁栄したクメール王朝と
大和王朝から稲作技術が逆に沖縄に伝播した。
クメール寄りの久米島稲作は途絶え、
廃藩置県後も、大和寄りの伊平屋稲作文化は残った。

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(画像は金武町です)

本土との稲作文化の違いは、二期作のほかは、稲刈り後の干し方なようです。
通常はハセ掛け、オニホ掛けが一般的ですが、沖縄で見かける多くはガードレール掛け。
道路管理者がどなりこむことも、盗まれることもないというところが
もしかすると、沖縄的な稲作ルールなのかもしれません。

これから数回に分けて、沖縄の稲作ルーツを綴っていきたいと思います。
が、これらは確定的なものではなく、言い伝えなども含まれているため
新しいことが分かり次第、書き換えていくこともあるかもしれませんので
ご了承ください。