最近、すごく自然に「死」ということが間近にあることを痛感することがあります。
のっけからすみません💦
ほんとにナチュラルにそれを感じ始めました。
私が先日のブログ「一度でもやりたいと思ったことを辞めちゃうのは逃げなんじゃないか?」の中で”例えば今日で私が終わったとしても「やってきた!」と言える生き方を選んできた”という言葉を入れていますが、そのことを考えながら出てきた言葉・・想いでした。
過去、こちらでのブログはないのですが、以下の内容のお話しをもう一度、今出会ってくださっている方々へ届けたくて、このお話しを綴ります。内容からみて8年くらい前のことだと思います。
子ども達がそれぞれの岐路でしっかり判断し、親ばかな判断ながらも、心の豊かで他人を思いやり、人生を自分の足で歩んでいけるようになったと感じる今日この頃。
もともと子どもとして、個として接することを心がけてきましたが、私が思うよりずっと、成長している年齢なんだということをたまに忘れてしまいそうになります。。
もちろんまだサポートが必要な段階ではありますが、今までのように入り込むことではなく、ある程度は自分でさせてみて、その段階での考えなどを聞きながら一緒に反省してみたり、認めていくことになると思います。
そのためには干渉ではない忍耐が私には要求されますし(笑)、本人に気づかせるための質問の仕方も必要になるでしょうね。
昨日、ムスメが
「じぃじに始めて“優は頑張ったからな・・”って、アタマなでなでされた」
と、ちょっと照れながらつぶやきました。
本土への就職が内定して、まわりの“沖縄でも探してみたら?”という反応にちょっと戸惑ってたムスメ。おじいちゃんである父も少なからず動揺したのを感じていました。
うちの父はたぶん「女の子」にどう接していいかわからないタイプ(笑)。
長女の私ではなく、弟達のほうにやはりいろんな話をしていたの覚えています。
だからと言って、ほっとかれたのではなく、記憶の中の幼い私は、きちんと感じることのできるほどの愛情を注がれていたのは今でも覚えています。
でも、オトナになって気が付いたのは「父に褒められたかった」という感情が残っていたこと。
どんなに賞をとっても、どんなに良い成績を修めても口にして褒めてくれることはありませんでした。喜んでるのを感じてても、やっぱり口にして褒めてもらいたかったんでしょうね。
なので、その父がムスメをこういう形で褒めたというのは、よほどの感情があったのだと思っています。
人はともすると「言わなくても分かる」という感情が起こりがちです。
もちろん、言わなくても分かることは多いし、オトナになるとそういうことの方が増えてきます。
仕事の面では報・連・相ということで、きっちり伝えていくということはしているのでしょうが、家族や友人などの身近な存在になればなるほどそういう感じになってしまうのではないでしょうか?
特に、気持ちを伝える部分はやっぱり照れくさいもんで、なかなか言いませんよね(▽//;)
子ども達が確か2~3歳くらいの頃からでしょうか。最初は私も恥ずかしかったのですが(笑)、意を決して口にしていくことを決めました。
「お母さん、(子どもの名前)のコト大好き」
そこからでしょうか、子ども達も少しづつ変わってきました。
良いことは全身で喜んで褒め、私自身が
“なぜ怒るのか、なぜ悲しいのか”ということや
“こう思っているんだけど、あなたはどう思ってるの?”
そんなことを話たり。
怒りにまかせてぶちまける方が簡単ですし、そこを抑えて私自身が怒るのか・叱るのかを見極めることにもなりましたね~。(思えばいい勉強になりました。)
ムスコに関しては、学校から注意の電話をいただくこともあったのですが(;’∀’)、これは学校側の保守だと感じたときには素直に先生にそう話したし、それをムスコに伝えるときにも必ず、“親は子どもを信じている”ということを感じてもらえるような言い方を心がけました。信じているという言葉は例外で
口にするものではないと思っています。嘘っぽくないですか?それ・・・
口にするという時点で信じてもらえてない気がしてくる。
信じるというのはこちら側の感覚であって、信じるとは覚悟すること。
そう考えています。
全てに通じることは
子ども達を個として想い、表現する
ということ。
そして
大好きって伝えていくこと。
全ての想いを表現することは難しいですし、表面の言葉だけで判断させるような関係にしても良くありません。でも心から感じていることや、私自身の身から出た言葉というのは伝わるものだと考えての子育てをしてきました。
子どもと上手くいかなきとき
親としての考えを押し付けてませんか?
子どもに「こうあるべき」なんて考え方は実は通用しないものです。
というか
私達が同じ頃、たぶんそう思っていたはずです(笑)。
なんだかんだ書き綴ってきましたが、簡単に言うと、自分自身のその頃の立場・気持ちを思い出し、そこに経験を加味してみればいいんです。で、それをそのまんま伝えてみればいいんです。
時代が変わり、環境が変わっても、人間の思想というのは実はたいした変化をしてないようですよ。
映画「レ・ミゼラブル」を観た時にそれを痛感しました。書籍などもそうで、例えば100年も前のものでも、異国の文であっても、それに悲しみを感じ、それに喜びを見いだすことができませんか?
そこに感情を揺さぶられませんか?
たかだか数十年。
親と子の学校の内容や遊び方は変わりましたが、そのとき感じる喜びや悲しみ、怒りの根幹はさほど変わらないはずです。
「お母さんの頃はこうでね。今とは違うけど、もしお母さんならこう考えるからこうするかな」
何か1つのテーマを掲げてそんな会話も楽しんでみてください。いつも見てるはずの子どものカオが変わってみえるはずですよ。
しかし。「大好き」って伝える習慣を子ども達が小さいときにスタートして良かったと思っています・・これが小学校高学年ともなると「・・・キモ。」で終わってたかもしれません(汗)
「最後だとわかっていたなら」
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
上の後半の詩は、私が一番大好きな絵本に内容です。
その絵本がどういう意図で描かれたなんてどうでもいいくらいに、なんどもなんどもその言葉を読み返しました。私に不足してたもの、私が求めてたものだったのかもしれません。本屋さんにも並んでいたので、機会のある方はぜひ一度、手にとってほしいと思います。
おはよう おやすみ
いってきます ただいま
おかえり ありがとう
ごめんなさい いただきます
ごちそうさま だいすき
そんな当たり前なことを言える幸せ。
その人を大切に想っていることを
あなたの口から
そう伝えてあげてくださいね。
反省はしても後悔の無い時間を!